(^_-)-☆特待生

 2394 広島原爆投下の日でしたね。色々な特集番組が組まれていた。高校野球甲子園大会の開会式を、多分、初めてテレビで見た。好ききらいということではなく、ほとんど興味はなく、ほとんど、見たり、応援にいったりすることはなかったが、高校野球に関しての思い出はある。
先ず、今日の始球式で王貞治さんを見た。私が、多分、中学二年だったと思う。選抜で優勝した後だったと思う。草薙球場で、静高と静商が招待の早実と練習試合をした。それを、父親と一緒に見に行ったのでした。その時の王選手を見たくて、観覧席は一杯だった。王選手はピッチャーで四番だった。それだけのことだった。

その後、高校二年の時に、我が静高は、あれよ、あれよという間に、甲子園の決勝までいってしまった。決勝相手は、法政二高、その時のピッチャーで四番が後にジャイアンツの九連覇時代の一番バッター赤手袋の柴田選手でした。三対ゼロで負けて、準優勝。誰もが、勝つとは思わなかったので、良く底までやったな、という感じだった。びっくりした。やつら、そんなに、凄かったのかと。何度も、書いたかもしれないが、二番、セカンドの友人がいた。決勝で柴田から二本のヒットを打った。中学三年の時の同級生、私が一学期三学期の学級委員長、彼が副、二学期は、その逆だった。静高の野球部だけではなく、一般入試枠の他に、スポーツで優秀なら入学させていた、私は、当時から知っていた。しかし、彼は、一般入試で受かる学力も持っていた。
高校の一年の時も同じクラスだった。一年六組湯沢コースと言われて、特殊なクラスだった。ホームルームデーといって、クラスで自由に目的地を決め、遠足ではないが、一日一緒に過ごそうという日がった。自分たちで計画を立てて、手配もするのです。バスで富士五湖の方に行こうということになった。面白かったのは、どこか知らないが、バスを止めて、三つ峠に登ろうということになり、ほとんど、駆け足で登り降りした。
中学の時の運動部である程度活躍していた生徒が多く、集められた。野球部が6人始め、硬式テニス、バスケット、これらは当時、インターハイや国体で上位か優勝の実力を持っていた。その中に、私の卓球や柔道や重量挙げや軟式テニスなどの選手もいた。だから、一年の一回目の実力テストの結果は、学年で最高が15番から最下位までとバラツいていたが、学年末テストでは、最高が100番くらいになってしまっていた。

入学した時には、十分な学力があっても、運動部に属していると、どうしても、勉強の時間は短くなるし、同じ時間勉強しても、疲れが残っていて、思考力や記憶力が減っているのです。合宿の時などは問題集や参考書を持ってきて、夜は、それぞれ、勉強していたし、試合にいっても、試験が近い時には、合間に教科書を開いていた。それでも、普通に勉強している人とは差がつくのは仕方がない。私の場合は、三年の夏が終わって、部から離れた時から、まともな勉強を始めて、最終実力考査でやっと100番に入った。静高は、当時、100番以内なら、中程度の国立の工学部に入ることができるという評価だった。一部、二部校があって、家庭の事情で、大学は国立、浪人は駄目という条件があったので、滑り止めの二部の梨大工学部に滑り込んだ。

私が言いたいのは、今はどうか知らないが、当時は、野球部に限らず、全国区クラスの生徒が多かったが、入学当時は、ほどほどの学力を持っていた。ただ、三年間で、学内順位的には落ちて行った。運動で大学に入る人、普通の試験で大学に入る人、まちまちだった。中学の時に、上位20%くらい以下という生徒はいくらスポーツ能力が優れていても静高で受け入れることはしなかったと思う。

全ての生徒が認めていた。運動と勉強の両立とはどういうことか、それぞれが、どの程度以上なら両立できているというのか、自分の能力と合せて、評価はまちまちだと思う。当時の私と私の周囲にいた運動部員は全員、両立させていたと思う。
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賑やかな子供のころと比べて、今は、人が少ない、国道一号線、静岡駅前から500mほど西です。人も車もほとんど見えない。
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ショッピング。
両立 睡魔 特待生

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