(^_-)-☆押出成形との出会いA

 3622 Plastic Extrusionプラスチックエクストゥルージョン 押出成形 54年目に入った今、出会いから7年間くらいの間、昔々をちょっと振り返る。
このことは押出成形技術とは大いに関係あると思いますし、現場人間のひとつの考え方がここから生まれてきていると思い、時々の思いを含めて、書くことにしました。プロファイルで書いたことの補足にもなる。
 
A 1965年春 学生時代、化学を専攻した私が不況のあおりで就職した先は、東レ、極東貿易、臼井国際,三社の子会社、静岡県東部三島郊外、柿田の 東洋プラスチック精工 (現在東レプラスチック精工)でした。本社は、東京、日本橋でした。

前年の8月、赤尾洋二先生の紹介で、先生のお兄さんが務めていた極東貿易の子会社ということで紹介された東プラ精工へ面接に行った。北大での卓球の国公立大会を終えて、とんぼ返りだった。升本社長と話した。覚えていることは、社長になるつもりで頑張ってほしいということと、卒論のテーマについて話したところ、日科技連は新興宗教みたいなもんだな、ということだった。

東レが生産する樹脂、ナイロンやABSの成形、消化が目的で、1964年創業。射出、押出、コンパウンド、ベルト基材、シート、プレスの部門に分かれていた。ドイツから技術導入した射出成形機と丸棒や板などを作る固化押出(金型が溶融と冷却が一体になっていて、金型から出てきたときすでに表面は固化している)ラインとチューブを作る溶融押出ラインが設備されていた。超高密度PEの粉を厚板にするプレス成型の設備もあった。日本では、先駆けの技術だった、その他は東レプラ研の技術だった。いずれも初めて目にする代物で、装置、部品、工具などは名前さえ知らないものばかりだった。学生時代に勉強したことを生かそうという気持ちはすっ飛んで、ただただ、覚えることに総力を注いだ記憶がある。押出機を見たのはこのときが初めてでした。

会社へ就職してしばらく、工場のあらゆる部門で2~3ヶ月ほどずつ実習をして回った。実習が終わった頃、どの部門に私を配属するか、上のほうで迷っていてなかなか決まらなかった。
 
実習中に学生時代の恩師の言葉を思い出していた。「不良品の山は宝の山と思え」という言葉だった。押出部門が一番その宝の山が大きかった。また、立ち上げから製品に持っていける作業者が非常に少なかった。納品に出かけた車が、帰りには返品をいっぱいにして帰ってきたりした。ほかの部門はすでに作業標準通りにやれば、製、品ができるようになっていた。そこで、押出部門が、一番、力が発揮できそうだと感じて押出をやることに決めた。

そして、ここで、当時の係長補佐で初代組合長の塩崎さんに出会った。今先輩の行動,生き方が、良くも悪くも、ああなりたいとか、ああはなりたくないなど、私の生き方を選ぶ参考になった。

私から、時の製造部長に、押出の三交替の班長として配属してもらうように頼み込んだ。なぜ班長かというと自分にプレッシャーをかけたかったから。現場の三交替から入りたいというのが利いてか、すんなり受け入れられ、大学を出て一年半後晴れて押出成形部門の三交替の班長にいきなりなってしまった。すでに、そのころから人に「なぜだ」と聞かれることがおおくなった。「変わり者だ」と言われたとき、「変わり者ではなくて、超えている者と、思っている。」と、答えることにした。これが押出とのかかわりのスタートでした。以後、現在までで50年以上経過した。「私と同じだね」と言われることは、今でもないと思う。
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太田化工の2019年カレンダーこのスタイル、太田化工創業以来ずっと続けている。受け取り側は、待っている、遅れると、まだかと、催促される。
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今日の夕方の富士山
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